彼は俳優の演技に興味がなかった。
彼が好きなのは物語だった。小説もマンガもアニメもドラマも映画も好きだったが、目を向けていたのは文章の美しさでも絵の上手さでも演技力でもなく、物語だけだった。
彼は設定の奇抜さや展開の妙、見事な伏線やクライマックスのカタルシスに心奪われていた。登場人物たちの心理や、事件によって昇華されていく心の動き、それに同期したときに自分の中に生まれる心地よい爽快感、感動が好きだった。
彼が注目しているのは物語だった。「どのような話か」というのが第一に重要な点だった。
俳優の演技には興味がなかった。それは一見難しそうで、奥が深そうで、それでいて誰がやっても大して変わりはなさそうに思えた。根拠もなくそう思っていた。配役なんてそれっぽい顔のそれっぽいイメージの役者を当てはめればいいだろうと、浅はかにも思っていた。
彼からすれば「物語」自体が面白かったため、その他の要素に興味がなかったのだ。そんなものに目を向けなくても、「物語」はそのままで十分に面白いのだから問題ないという気持ちだった。
ところが、彼は演技というものに興味をもつ機会に恵まれた。恵まれたというより、否応なく興味を持たされてしまったといった方が正しい。それくらい強烈に、今まで興味のなかった「演技」というものが彼の目の前に現れたのだ。
機会を与えてくれたのは「School of Rock」という映画だった。レンタルビデオ店に行った際、「天使にラブソングを」のような映画だとどこかで紹介されていたのを覚えていたため、借りてみることにした。彼はそういう映画が好きだったのだ。
結論から言うと「School of Rock」は「天使にラブソングを」よりも数段面白い映画だった。少なくとも彼にはそう感じられた。借りてきたDVDを何度も見返すのは本当に久しぶりのことだった。
「物語」の形としては「天使にラブソングを」とそれほど変わらないのに、どうしてこの映画は面白いのだろうと彼はふと考えた。そして大して考えることもなく、彼は正解にたどり着いた。彼にってそれは明らかなことだった。もっとも画面によく映る、型破りな主演の男に彼は引き寄せられていた。主演の男の面白さが、この映画を彼にとって素晴らしく面白いものにしていた。
その映画の主人公の名前はデューイ・フィンといった。映画の中でデューイ・フィンは暴れまわっていた。音楽を愛するあまり暴走しがちなバンドマンが金に困り、教師に成りすまして小学校にもぐりこみ、子供だけのバンドを率いて賞金目当てにバンドバトルに出場する物語。その過程でデューイ・フィンは、観客ダイブに失敗して気絶したり、バンドメンバーにクビを通告されたり、居候の分際で親友の彼女にキレたり、友達の名を騙ったり、小学生の女の子のパンを奪ったり、とにかく常識にかからない。
それでいて音楽については並外れた情熱を持っている。それはデューイ・フィンが音楽に関する何かを語っているときや、実際に演奏しているときの様子ではっきりとわかる。デューイ・フィンの子供たちへの指導はとても熱心で誠実だ。
彼はそういう姿を見てデューイ・フィンという人間が好きになる。しかし重大な事柄がある。デューイ・フィンは「ジャック・ブラック」という俳優が演技をしている姿だということだ。デューイ・フィンは映画の中で「ジャック・ブラック」というバンドマンを演じているに過ぎない。ディスプレイの中の男は本当は「ジャック・ブラック」であり、あれは演技なのだ。
しかし彼にはそれがちょっと不思議に思える。理屈の上では納得できるし、わかっているのだが、なんだか不思議な気分になる。本当に映画の中のデューイ・フィンのような人間が現実にいるはずだと思ってしまう。そんなわけないと理屈ではわかっていても、そんな気がしてしまうのだから仕方がない。そしてそれは演じている「ジャック・ブラック」本人なのではないのだろうか。彼はそんなことすら考える。「ジャック・ブラック」=デューイ・フィンのように彼は錯覚する。「ジャック・ブラック」という現実の人間は、デューイ・フィンのような型破りで情熱的な人間なのではないだろうかと彼は思う。そうでなければ何となく辻褄が合わない気がする。そんな気がしてしまうのだ。
彼は自分が映画の中のデューイ・フィンのような人間が本当にいてほしいと望んでいるのだと分析する。もし本当にいたらどんなに素晴らしいだろう、と思うようになっている自分を発見する。彼は夢想家ではなかったし、現実と虚構の区別くらいはできたのだ。
彼は映画の中のデューイ・フィンではなく、その向こうに実際にいる「ジャック・ブラック」に興味を持ち始める。インターネットで経歴を見て、彼がどんな人間かを知ろうとする。DVDも購入し、特典映像からこのSchool of Rockという映画をどのような気持ちで撮っただとか、そういう情報も吸収する。
そうした後にもう一度この映画を見てみると、いっそう面白く見ることが出来る。現実に存在する「ジャック・ブラック」という人間が、このデューイ・フィンという人間になりきっている姿は、彼にとって考えたことのない方向からの新鮮な衝撃を与える。彼は自分だったらどうだろうかと考える。こんな風に迫真の、実にリアルなデューイ・フィンを表現できるかと想像する。まったく真実味あふれるデューイ・フィンの姿に、その向こう側にいる俳優「ジャック・ブラック」の姿に彼は目を見張る。彼は「演技」というものの素晴らしさ、奥深さに触れた気がする。
そして、彼は演技とはどういうものかに興味をもつようになる。登場人物の背後にいる現実の演者に思いをはせることが出来るようになる。それは新しい発見だ。今まで触れていた映画というものの。新たな見方を発見できたのだ。それは実感を伴ったものだ。今までなら誰かに俳優の演技がどうこう言われても興味を示さなかった彼は、俳優の演技に注意深くなる。そうして演技というものに本当に細かな意図が込められていることに気づき、面白くてたまらなくなる。「物語」の意匠のみに注目していた彼は、俳優の巧拙などがドラマや映画に深刻な影響を与えることを実感できるようになる。
このように、素晴らしいものや感動できるものに触れることで、人は興味や関心をもてる。心の底からもてる。それについて知るだけで満足で、知ろうとするだけで面白い。それの背後に大きな世界があることを理解するだけで、面白さの種がまだまだたくさんあるとわかる。 対象のものが真に素晴らしいと世間から評価されているかは関係ない。彼が本当に感激し、「デューイ・フィン」にほれ込み、ジャック・ブラックに興味をもったことが肝心なのだ。心の底から感心できる、興味を持てる、そういう性質を持つ限り、人間の前には次々と新しい世界が開けてくるものなのだ。
そういう考えからいえば、物事に「なんだ、こんなもの」という評価を与えることは、自分を殺すことを意味するとわかるだろう。そうする人間は自分の世界を広げることが出来ない。そう、その人は「物語」のみ追い続けるハメになるのだ。